2014年 01月 24日 ( 2 )

 

博多の勤皇商人物語

博多の勤皇商人物語
十一代  白木太七、福萬醤油の二代
(1835年~1868年、33歳、明治元年没、戒名は寒梅自香居士)。
白木太七は歴史に封印された勤王商人であった。
太七は有名な勤王商人で奇兵隊の隊員、石蔵卯兵衛ともに勤王の志で幕末を生きた。奇遇にも、親戚である石蔵卯兵衛と同じ年に生まれ、同じ年にこの世を去った。
石蔵卯兵衛は、長州の勤王志士、高杉晋作が長州藩の佐幕派から命を狙われていた時、博多に亡命した高杉を匿い命を救った命の恩人である。のちに、高杉が設立した奇兵隊にはいり、姫島に監禁されていた野村望尼を救出した。
また薩摩・筑紫・長州同盟を掲げて尊皇運動に活躍した筑紫勤王党リーダーの月形洗蔵(萬町、親富孝通りに面する少林寺の入り口にお墓がある)の依頼を受けて、隣人の目明かし高橋平兵衛と協力し、醤油蔵に西郷隆盛を匿う。目明かし高橋平兵衛は月照和尚を奥座敷に匿った罪で、黒田藩にて捕縛され、姫島に明治4年まで監禁される。白木太七は石蔵卯兵衛と共に、長崎に逃げ延びるが、明治元年に黒田藩の佐幕派により暗殺された。両人とも京都近江屋で前年に暗殺された坂本龍馬と同じ33歳であった。いまだに白木家の仏壇には、黒田家に配慮して、正式な位牌は仏壇に無い。昨年2009年、童子や童女の集合位牌の中から薄い位牌が発見された。
戒名は「寒梅自香居士」まだ、寒い冬のさなかにただ自分から
唯一の香りを出す人
位牌を安国寺の方城さまにお見せすると、勤王の志士らしい
戒名であると言われました。偶然にも、太七が16歳の時に奉
行宛に綺麗な字で書いた手紙が見つかりました。
幕府の追っ手から暗殺を恐れた西郷隆盛と月照和尚の京都から筑前へ落ち延び、薩摩へ向かう。この時平野国臣は月照和尚を薩摩に連れて行く使命を果たす。薩摩藩から月照和尚の受け入れを拒否された西郷は月照和尚と錦江湾に入水自殺を遂げる。
この時、西郷を海から救いあげたのが筑紫勤王党の平野国臣である。
薩長連合の主役である西郷隆盛と高杉晋作の命を救ったのは、福岡の筑前勤王党の侍や勤皇商人の面々達である。
[PR]

by masashirou | 2014-01-24 16:21  

白木家の戦国時代の系図

戦国時代系図
一代  朝倉刑部太夫景遠
越前国、細呂木藩主3万5千石。朝倉金吾義景の弟。兄弟で浅井氏
と共に、織田信長と姉川で戦う。世に言う姉川の戦いで敗戦。兄は討死。福井県の日本海に面する山に囲まれた秘境の地、白木谷に弟は落ち延びて、隠れ住む。白木谷の白木という名前は新羅の国からのこの地に隠れ住む朝鮮半島からの逃亡者が隠れ住む村であった。白木は新羅の呼び方が変化したと言われている。位牌無し。

二代  白木忠右衛門景定
織田信長の追っ手を避けるために、姓を朝倉から白木と改名。白木谷を出て、備前の国(岡山県)の福岡の黒田官兵衛に仕える。栗山備後守利安の妻は忠右衛門景定の妹。忠右衛門景定は栗山備後守利保の義兄。位牌無し。

三代  白木甚右衛門
(?~1631年、寛永9年殉死)
叔父である黒田家老、栗山備後守利安(一万五千石、1550~1631、82歳、寛永9年死去)の次女を妻に娶る。甚右衛門は栗山備後守利安の義理の息子。つまり、黒田騒動の首謀者である家老栗山大膳と義兄弟。家臣として300石をいただく。九州での黒田官兵衛の九州攻略戦で、各藩との戦いに栗山備後守と共に参戦。備後守の死去にともない即日殉死。備後守我主君如水の為に建立した杷木町志波の円清寺に備後の墓を守るように墓がある。位牌は円清寺に有り。円清寺は筑前藩主黒田長政の父孝高公が、慶長9年なくなったとき、志波以東の宰領をまかされていた黒田藩家老栗山備後利安が、主君孝高公菩提のために建立したもので、山号寺号もその法名「龍光院如水円清居士」に因んだものである。したがって黒田孝高公、長政公の位牌や梵鐘、画像等黒田家ゆかりの品々が保存されている。
志波円清寺全景
[PR]

by masashirou | 2014-01-24 15:31