テロの脅威「小説「龍を見た男」より

第二十三章  テロの脅威

あれから三十年がたった。
二〇一五年 七月一六日
安全保障関連法案が衆院本会議で可決。
違憲としてきたこれまでの政府の解釈を強引に変えて、拡大解釈し、集団的自衛権行使が可能となった。同盟国アメリカの要請があれば「国家存亡の危機」という政府が解釈すれば、いつでも、どこでも、武装した自衛隊を派兵することが可能になった。アメリカの強い要請を受け、日本政府は軍事的拡大をアジア海域で強行する中国の脅威に対抗するという大義を掲げ、石油利権獲得戦略の為に中東で繰り広げる欧米諸国の戦争、キリスト教徒対イスラムとの宗教戦争にも武器を持って参戦できるようになった。

八月十一日
日本では原発の再稼働が始まる。
新しい原発規制委員会がテロ対策とされた遠隔から原子炉を制御できるオフサイトコントロールセンター設置義務事項を先延ばし、また福島原発事故で現場の生命線として活躍した教訓を与えた免震重要棟の設置さえも反故にして、九州の鹿児島県の河泰原発を八月に再稼働させ、次々と再稼働の動きが全国に拡大した。

十一月十三日
イスラム国テロリストによるパリ同時多発テロ事件が発生。百三十名のパリ市民の命が奪われ、世界中に衝撃を与えた。
「イスラム国と戦争状態に入る」とオランド大統領が宣言。アメリカ、英国、ロシアと共に、イラクとシリアのイスラム国が支配する地域の空爆を開始。

「イスラム国と戦争している有志連合と行動を共にする」という日本の首相の発言を受けて、イスラム国は拘束した日本人二名を殺害。
イスラム国は「今後、日本国及び日本人をターゲットとする」と日本に対するテロを宣言した。

十二月三十一日
アメリカ・フランス・英国・ロシアなどの有志連合国はシリアとイラクのイスラム国が支配する地域の大規模な空爆によりイスラム国の過激なプロの多くのテロリスト戦闘員が中東地域から離れ、テロ事件のターゲットを欧米各地、アジアと日本に移すために姿を消した。

二〇一六年 
一月六日
北朝鮮が「朝鮮労働党の戦略に基づき、初の水素爆弾実験を行い、成功させた」と報道する。

一月十四日
インドネシアの首都ジャカルタの中心部で、男らが爆弾を爆発させたあと、市民を銃撃し、インドネシア人とカナダ人の二人が死亡、外国人を含む20人がけがする自爆テロが起こった。イスラム国のテロがアジアに飛び火した。

一月十六日
台湾の総統選挙で、台湾初の女性の、蔡英文総統が誕生した。同時に行われた台湾の議会、立法院の選挙では、113議席のうち民進党が68議席と、改選前の40議席から躍進して、国民党にかわって第一党となり、初めて単独で過半数を獲得した。中国を取り巻く環境に新しい動きが始まった。

一月二十六日

天皇陛下と美智子妃殿下が54年ぶりに、フィリピンをご訪問。フィリピン革命の指導者マキノ大統領の子供が成長して新しい大統領になっている。マキノ大統領が両陛下を飛行機のタラップ下まで迎え、異例の歓迎をした。両陛下は111万人のフィリピン人が戦死した霊を祀る無名戦士の慰霊碑と独立の英雄ホセ・リサールの慰霊碑を訪問され、その後、大東亜戦争で、50万人という最大の日本軍兵士が戦死した霊を祀る日本人慰霊塔を訪問された。96%の国民が親日のフィリピンと日本が、二度と戦争をしないように祈る旅であった。

一月二十八日
プルサーマル型の福井県の近畿電力の高岡原発三号機が再稼働を始めた。

激動する二〇一六年が始まった。
政府は次々と原発の再稼働を始めていた。
原発再稼働を急ぐ日本。

再稼働の世論形成のために、長く続いた公共放送の報道番組『リアルニュース』が反原発の特集番組を制作したとして、突然の打ち切りが発表された。
民間放送の人気報道番組『真実報道ステーション』では、反原発のメインキャスター古立健二が若手のイケメン局アナに交代し、元経産省官僚で反原発や反安保法案を述べる古賀尊明コメンテーターの突然の降板など、あからさまな政府のマスコミへの締め付けが始まった。この動きは東京キー局のみならず、地方テレビ局にも拡大し、魔女狩りのように行われていた。それと、同時にテレビ局の社外取締役の人事に異変が起こっていた。電力会社のトップ自らがテレビ局の社外役員に就任、テレビ局側も電力自由化に向けて始まる二千億円ともいわれる広告費を獲得するために喜んで受け入れた。

山崎は父の葬儀以来、二十年ぶりに南米のコスタリカからヒューストン経由で日本に戻った。九十二歳になった母千代と同居している兄夫婦が北欧クルージングの旅行で一ケ月留守にする。兄正一郎は北九州市戸畑区にあるロボットメーカーの安岡工業株式会社の専務である。
安岡工業株式会社、創業百年の歴史を誇る地元で有名なロボット製造企業である。最近はアメリカ向けの農薬配布用の人工頭脳を搭載した大型ドローン製造で利益が前年の二倍に成長した。ご褒美で、創業家四代目の安岡新次郎社長からのプレゼントされた特別の旅行である。姉の話によると、長距離の飛行機の旅が嫌いな兄が渋々出かけることにしたのは、社長が手配した航空券が往復ともファーストクラスのチケットであったからである。兄以上に喜んだのは姉の絹子で、母と一緒に大きな二世帯住宅に暮らしている兄夫婦にとって、初めての夫婦そろっての長期海外旅行であった。

「高齢の義母が心配で、義母を一人にしたくないの、お願い・・・」
義姉からの頼みで山崎は渋々帰国を決意した。
母とは二十年ぶり、父の葬儀以来の再会である。

山崎は、優等生タイプの長男である兄を溺愛する両親をなぜか避けるように。人生を歩んできた。山崎には兄の他に、二人の姉がいた。山崎は末っ子で甘やかされて育てられ、六歳まで母のおっぱいをしゃぶっていたらしい。
三歳の時に、庭の柿の木で遊んでいた時に、大きなスズメ蜂に刺されて、気を失い落下した。三日間意識不明で、奇跡的に回復、医者から「もう一度スズメ蜂に刺されたら今度は死にます」といわれた。それ以来、スズメ蜂が生涯、天敵となる。いまでも、昆虫の羽の音を聞くと、体が一瞬、凍り付くことがあるのは、その記憶の為だ。母から、外で遊ぶことを禁止された。いつも、家の中で姉たちと遊ぶ、青白い顔の「うらなりきゅうり」というあだ名の少年だった。「僕は女に産れればよかった。女に生まれたら、戦争に行かないでいいから・・・」というぐらい女々しい男の子であった。心配した父のすすめで柔道道場に通わせられたが、三日間で辞めた。「お前はダメな子だ」と父から、文武両道の優秀な兄正一郎と比較して小言を言われた。左ききであっつたことを恥じた母からは右ききに無理やり矯正させられ、それが原因かどうか解らないが、四歳で吃音になり、静かに一人で犬と遊ぶ子供時代を過ごした。吃音は山崎の心に深い闇を与えた。しかし、高校時代に毎週、福智山に一人用のテントを担いで登り、すれ違う見知らぬ登山客に「こんにちわ」と挨拶を繰り返したり、テントの中で声を出して本を朗読したりして、少しずつ喋れるようになった。「私はドモリですと、初対面の人に、まず自分から話しなさい。そうすれば隠すことが無いから楽になるちゃない」という母からの忠告が効いた。自分の欠点を隠さず、前面に出して勝負する。これが、山崎がドモリから得られた人生の知恵であった。

山崎は一度だけ母の頬をたたいた苦い経験がある。
六歳の時である。
実家に帰るたびに思い出す、つらい記憶だった。

「どうしよって割ったとね。弁償しんしゃい。元の茶碗に戻しんしゃい」
「・・・・・・」
追い詰められた幼い山崎は自分ではどうしようもない。ドモリで言葉が言えない。悔しさのあまり、小さな手で、思い切り母の頬をたたいて抗議した。

母は驚きのあまり泣いた。その夜、父正元からお尻を十回以上たたかれ、暗い押し入れに次の日の朝まで、閉じ込められた辛い記憶が蘇ってくる。

母千代の実家は博多で福萬醤油という創業三百五十年の歴史を持つ老舗の醤油醸造元である。先祖の白木甚右衛門は三百石の黒田武士、藩主黒田官兵衛を支えた筆頭家老、栗山備後守利安(善助)の家臣であった。白木甚右衛門は善助の長女の夫でもあった。白木甚右衛門は善助が死んだ日に義理の息子として殉死を許され、即日切腹して果てた。その墓は福岡県朝倉市杷木志波の円清寺に、善助の墓を守るように側に祭られている。

それから二百年の月日が流れた。時は黒船騒動で混乱する幕末、十三代目太七は、博多の勤皇商人石蔵卯平の影響を受け、討幕を志す勤皇商人となる。石蔵卯平は、博多鰯町に住み、屋号を石蔵屋と称し、対馬藩の御用達海運業を生業とした。石蔵卯平は、長州から逃げてきた高杉晋作を匿い、逃走資金を援助し、坂本龍馬、西郷隆盛などの多くの尊王の志士と交わった。対馬・福岡両藩の勤皇志士のために金銭を供給したり、自分の家に尊王の志士を庇(かば)ったり、また志士の依頼を受けて各地の情況を偵察した。後に卯平は奇兵隊に志願し、野村望東尼を姫島から救出したことで名を上げる。
太七は、親戚の卯平から頼まれて、月照和尚を幼友達の目明し高橋文七の奥座敷に匿わせ、自分は西郷隆盛を醤油蔵に匿った。西郷が、幕府から追われた勤皇僧侶月照をつれて薩摩に逃げる旅の途中であった。太七はこの罪で追われ、明治元年、梅の咲く寒い朝、長崎にて卯平と共に福岡藩の役人から殺害された。共に三十三歳の若さであった。戒名は「寒梅自香居士」《誰も春を知らないときに咲く寒梅、その香りは自分だけが知っている》という勤皇商人にふさわしい戒名である。ちなみに、文七は玄界灘に浮かぶ孤島、姫島監獄で明治四年まで拘留された。

福萬醤油は、親戚筋から養子に迎えられた半四郎が再び暖簾を上げるまで三十年間、閉鎖される。半四郎はやがて、醤油や味噌、酢のほかに、西洋のソースなどを製造して大成功し、待望の跡取りの半五郎が産れた。その半五郎の子供十二名の女の子のうち四名が生き残り、母千代は長女として成長した。

山崎の父、山崎正元は甘木市(現在は朝倉市)で蝋<ろう>問屋の末っ子で生まれた。先祖は豊臣秀吉に敗れるまで戦国時代、この地方を治めた豪族秋月種実の子孫である。父が六歳の時、父が重い病で病死、また不幸なことに、蝋工場から火災で焼けてしまった。火災の火元責任者として、近所に弁償する為にほとんどの財産を差し出した。残された母と兄姉四人が山崎家再興の夢を末っ子に託した。父はそんな兄や姉たちの思いを受けて勉学に励んだ。兄の轍は勉学資金を手にする為に、黒田の殿様の屋敷前で三日間、座り込みの直訴をして、黒田奨学金育英会に頼みこんだ。

正元は京都帝国大学に進学、卒業後、大学総長の紹介で、ソウルの朝鮮銀行に就職した。母の父白木半五郎がソウルに旅した時、朝鮮銀行総裁から紹介された正元を一目で気に入り、「ぜひ、千代の婿に」と頼み込んだ。二年後、正元は福萬醤油の後継者として千代と結婚。しかし、半五郎が四十七歳で急逝。半五郎の後妻久乃は、養子に来て、いつまでも、名前を変えない正元に対して不満がつのり、折り合いが合わず対立した。正元は家を出る決意をする。母は家を捨て、ソウルの朝鮮銀行にふたたび戻る父と運命を共にした。

山崎が割った青磁の茶碗は、その時、ソウルに到着した晩に朝鮮銀行本店の前の京城三越百貨店で父が母の為に買った茶碗だったのである。山崎にとってその話は今回の帰国で母から初めて聞いた話であった。
二ケ月後、割れた茶碗は京都にある父の京都大学時代の友人が営む金継ぎの老舗≪泉屋≫にて金継ぎされて戻ってきた。金継ぎとは茶の湯文化が盛んになった室町時代から日本にだけ受け繋がれた伝統技術である。割れたり、欠けたり、ヒビの入ってしまった陶磁器を漆で接着し、接着部分を金で装飾して仕上げる。金継ぎした割れた茶碗は更に高価に売買されるという不思議な国日本。
そんな話を深夜まで母と語ったのも山崎にとって新鮮であった。母が新妻だったころ、家や親を捨てて異国に赴任する父と行動を共にした勇気ある母。母の事を何にも知らないで茶碗の事件から疎ましく避けていた山崎は、母が人生途上でどんな困難にも前向きで生きて来たたくましい女であることを初めて知った。

《父と出会う前に、あこがれた青年がいて、その人が結核になり、親から反対され、一晩中泣いた話、父が亡くなった時、その人がまだ元気で生きていることを知って、父の遺体に向かって文句を言った話や、親友から頼まれて役員に就任した会社が倒産し、負債を苦に父が首をつろうとした時に、母が体当たりして止めた話》など、幼かった山崎が聞かされていなかった昔話に花が咲く長い夜を過ごした。思い出の割れた古い茶碗を前に、九十二年間の母の人生を聞けたのが嬉しかった。

山崎が暮らす南米のコスタリカは地熱発電所の建設ラッシュで、自国のエネルギーの十五%をすでに地熱発電で行う地熱大国になっていた。コスタリカは自然エネルギーだけで国民五百万人の電力を賄う炭酸ガス排出ゼロの国、そして、日本と同じように平和憲法を持つ南米の自然豊かな国である。山崎は阿蘇地熱プロジェクトが終了してから、地熱開発をこの二十年間停止した日本を離れて過ごした。この空白の間に、日本の地熱関連企業がほとんど倒産したからだ。山崎は、兄夫妻にかわり、母の世話をする為と、三十年前に手がけた阿蘇の龍上川地熱発電所がバイナリー―発電(地下に還元する熱水を活用し、沸点の低いガス媒体を使用して発電する方式)で五万キロワットから六万キロワットに増設する式典に母を連れて出席し、湯布院温泉で二日ほど滞在するつもりでいた。
この時、山崎がこの後、世界を震撼させるテロ事件に巻き込まれることになろうとは知る由もなかった。
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by masashirou | 2016-02-08 20:25  

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